穴ぼこ生活

穴ぼこの空いた数だけ書き記すお気楽ブログ。穴ぼこ人生ここに極まリ!

津野米咲の自死について思う

natalie.mu

フジファブリックのように、支柱を失ってもバンドを継続していく選択肢もあるのかなと思ってはいたけど、同じ失うにしても、やはり津野米咲自死は、バンドが背負うにはあまりにも重過ぎる十字架だったということなのだろうか。
誰よりも、残されたメンバーが感じているに違いないはずだろうけど、解散は無念の一言に尽きる。

去年、移動中の車内で津野米咲自死を知らせるネットニュースが飛び込んできた時は、あまりに突然の出来事に本当に我が目を疑い、と同時に絶句したのだった。
音楽が文化を生み出すよりも消費されるような時代に移り変わっていく中、次第に穴ぼこオヤジも音楽から興味が薄れるようになり、特に邦楽の魅力がどんどん失われているように感じているのだけど、そんな中、唯一と言っていいほど、デビューから動向を追っかけていた日本のバンドが「赤い公園」だったんだよね。

昔っから、ギャルバン(古っ!)が気になって仕方のなかったオヤジ目線はさておき、リリースを重ねる毎に、楽曲や演奏のクォリティが上がっていき、次はどんな曲を聴かせてくれるのだろう?というワクワクを感じさせてくれる数少ないバンドだった。
そして、穴ぼこオヤジが指摘するまでもなく、その源は、溢れ出るほどの才能が織りなす津野米咲の音楽性によってもたらされてきたものであり、まさに唯一無二のミュージシャンであったと思う。
それだけに、彼女の自死は、バンドのみならず日本の音楽シーンにとっても、大きな損失であったと言わざるを得ない。

一部のファンの間では、津野米咲の遺作となったアルバム「THE PARK」の歌詞の一説を、遺書のように解釈する向きもあるようで、確かにダイイングメッセージとも受け取れるフレーズが随所に見られるとは思うものの、一方で、希望に満ちたメッセージを感じさせるフレーズも同じくらい放たれていて、むしろ、かようなアンビバレンツな音楽性こそが、津野米咲が生み出す「赤い公園」の魅力そのものなんだと思っている。


赤い公園「pray」Music Video

音楽に限らず、アートでも演技、文学でもそれこそ料理なんかにでも、表現する全てにおいて言えるのは、本来なら同居することのない相反する要素を独自の黄金比で融合し、表現できるのがモノ創りの才能でもあり、そんな才能によって生み出されたモノを、僕らが受け取とったり感じ取ることで、その奥深さに触れ、そして感動を味わうのだと思う。

希望と絶望、陽と陰、刹那と永劫、調和と不協 etc... 赤い公園の音楽性を語ろうとする穴ぼこオヤジにはかようなアンビバレンツな言葉が頭に浮かんでくるのだけど、これらを絶妙なバランスで、しかも見事なまでにポップロックに仕上げてしまうのが津野米咲だったんだよね。
それこそ、これからという時にボーカル脱退というバンドの存続に関わる危機を経て、それまでの明るくパワフルな姐御キャラだった佐藤千明から、内向的な元アイドル(アイドルルネッサンス)の理子という対照的な新ボーカルを迎えてもなお、「赤い公園」らしさを失うどころか、より進化した姿を披露してみせたのには驚く他なかった。
まさに、一回り大きくなろうとしていた矢先に訪れた突然の自死だけに、その衝撃は図り知れないものがある。


赤い公園 「絶対零度」Music Video

実を言うと、津野米咲がパーソナリティを務めていたFMラジオの番組をよく聴いていたんだけど、J-POPとハロプロをこよなく愛する彼女の想いが伝わってくる番組内容だったりで、以前の穴ぼこブログにも書いたように、穴ぼこオヤジが「ようこそジャパ リパークへ」を聴くと涙がこぼれそうになるのだけど、実は津野米咲もラジオで同じことを話しているのを偶然聴いていたことがあって、まさかの同志だったとはと、びっくりした覚えがあるんだよね。
穴ぼこオヤジが、津野米咲の生み出す音楽がいつも気になっちゃうのも、かような感性にシンパシーを抱いていたからなのかもしれない。

divot.hatenablog.com

ただし、津野米咲のアンビバレンツな面は何も音楽性に限らず、メンタリティーにも及んでいたように思える。
ラジオ番組のトークを聴いていても、予定調和を嫌ったり、自虐的だったりと、色々とこじらせている印象が強く、ナイーブさと熱さが同居する危うさを感じずにはいられなかった。
穴ぼこオヤジの野暮な想像でしかないけど、表現者としての感性の豊かさゆえに、アンビバレンツな対極のエネルギーをどんどん肥大化させてしまい、いつバランスを崩してもおかしくない不安定さを抱えていたようにも思えるんだよね。
そして、そのバランスを保つ唯一の方法が、音楽に情熱を注ぐことだったのではないかと。
だからこそ、熱量と儚さが同居する不思議な魅力に満ちた音楽を放ち続けていたのかもしれないと思ってみた。

ちなみに「赤い公園」の曲を聴いていると、カウベルがよく登場してくるのだけど、以前から穴ぼこ的にはこれがずっと気になっていて、激しい展開の後のブレイク部分に「ポコンッ!」とまさにコミックバンドかの如く、カウベルが響き渡る曲とかが結構あって、個人的にはあまり好みではなかったんだけど、恐らく、一つの方向性に引っ張られてしまいそうになる予定調和を崩そうと、一種のトリックスターのような味付けになっていて、津野米咲なりのJ-POPに対する拘りにも聴こえてしまうんだよね。
そういった意味では、色々考え過ぎる上に色々詰め込み過ぎだったりと、何かと、とっ散らかった印象に陥りがちな曲も多く、かような音楽性の複雑さ加減が「赤い公園」の魅力であるのと同時に、今に至るまでヒット曲に恵まれなかった要因にもなり得たという、厄介な話のようにも思えてみたり。
まっ、そんなところもひっくるめて、穴ぼこオヤジが「赤い公園」が好きなところではあるのだけれどね。


赤い公園 ライブ サイダー(熱唱祭り)
穴ぼこオヤジお気に入りの曲。もちろんカウベルあり。

そんな訳で、まさにこれからという時に、コロナ禍によって音楽活動が制限されるだけでなく、先行きも見えない中、次々と表現の場が失われていく状況を前にして、音楽が津野米咲にとってバランサーとしての役目を果たせなくなり、自分自身でも気づかないうちに、心身の均衡を失ってしまっていたのかもしれない。
もしもコロナ禍が世の中に訪れなかったら、もしも彼女の心にカウベルの音を響かすことができたのなら、僕らは、彼女の新曲を楽しみに待ち、そしてステージ上での姿を、今も見ることができていたのだろうか?

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穴ぼこオヤジは、かつて自死ばかりを考えていたことのある人間であり、そして自死を否定するつもりは今も無い。
それでも、今こうして穴ぼこ生活が続いているのは、自分が自死することで涙を流してくれる人がいるのならば、その人のために生きよう、と思えるようになったからだ。
それこそ、そんな気持ちにさせてくれるのも音楽の力だったりするし、そういう力が津野米咲が生み出してきた音楽にもたくさん宿っていたはずだ。
だからこそ、多くのファンが彼女の死に涙し、悲しみに暮れているのだと思う。
やはり、彼女は生きて音楽を届け続けるべきだった。
残されたメンバー、とりわけ新ボーカルの理子のことを考えると胸が痛む。

2015年に「赤い公園」の代表曲の一つでもある「KOIKI」がリリースされた際に、津野米咲がこんなオフィシャルコメントを残している。

大災害や命の終わり、大きなものから小さなものまで、私たちは逃れることのできないピンチに直面します。どこかで誰かが悲鳴を上げていることを知りながら、喜ぶことやふざけることは自粛するべきだと世界が怒っています。しかし、そんな時にも新しい命は生まれ、花は咲き、日は昇ります。大切な人が、そんな喜びを申し訳なく思うのであれば、私だけでも滅びゆく街の中で「おめでとう!」と言いたい。あの人の笑顔は誰も奪ってはならない。そんな気持ちで書きました。


津野米咲には小粋でいて欲しかった。



赤い公園「KOIKI」MUSIC VIDEO