記憶のマスタリング? 高橋竹山
穴ぼこ嫁にネットショッピングを頼まれたついでに、いつかは買おうと思っていた津軽三味線のCDをアマゾンにて購入。
- アーティスト: 高橋竹山,須藤雲栄,成田雲百合,後藤吟竹
- 出版社/メーカー: 日本クラウン
- 発売日: 2003/08/21
- メディア: CD
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そもそも、なんで津軽三味線なのかというと、もはやいつ見たのか記憶が定かではないんだけど、その昔、盲目の老人による津軽三味線の演奏がテレビで流れているのを目にしたことがあって、子供ながらにその老人から醸しだされる荘厳な佇まいと、鬼気迫る三味線の音に訳もわからず思いっきり引き込まれてしまったことがあったから。
そして、その盲目の老人こそ、彼の「高橋竹山」だというのを知り、以来、穴ぼこ脳内の片隅に津軽三味線の音がこびり付いて離れなくなっていたのです(笑)
で、彼の奏でるソウルフルな演奏が、もはや一伝統音楽の枠を飛び越え、当時の日本の音楽シーンや若者の文化に衝撃を与えていたことを後に知る訳なんだけど、
残念ながら、それを知った頃には既に故人となっていて、その演奏を生で聴く機会が無かったことがなんとも耳惜しい(笑)
そんな訳で、その世界観をせめてCDで味わいたいと、ず〜っと思っていた次第。
ちなみに、津軽三味線の演奏でユニークだなと思うのは、打楽器としての側面も併せ持っているところ。
言うなれば、ベースのチョッパーみたいなもん?(笑)
ピーンと張り詰めた弦を、パチーンと撥(バチ)で叩くように響かせる独特の奏法は、それこそ、凍てつく津軽平野をつんざく北風を想像させ、えも言われぬ緊張感を漂わせます。
で、今回買ったCDは、リマスタリングを施した高音質バージョンの再発モノだったんだけど、アマゾンのレビューなんかを見る限りでは、なにやら、その音質に賛否両論もあるようで、どうもリマスタリングによって前作とかなり印象が変わったのではないかとのこと。
確かに聴いてみると、穴ぼこ子供時代の時に受けた衝撃を期待するには、かなり軽い印象を穴ぼこ的にも感じてみたんだけど、果たしてどうなんだろう。
で、思い返して考えてみると、当時、映像越しで見たあの佇まいが、より迫力を増幅させて穴ぼこ脳内に記憶されていたのかもしれないなぁと想像してみた(笑)
即ち、リマスタリングそのものは高橋竹山の音を忠実に再現されているかもしれないのだけど、彼の存在感そのものが、人々の記憶やイメージする高橋竹山の音とのギャップを生み出している可能性があるのかもしれない。
それこそ、思い出の味なんかでもそうなんだけど、念願叶って、実際食べてみたら...
アレ?!こんな味だったっけ?
なんて、脳内でデフォルメして変換しちゃっているのと同じような感じ?(笑)
まぁ、それだけ高橋竹山の演奏には、観る者に強い印象を与える独特の世界があったと言えるんだろうね。
ついでにメカニカルな話をすると、マイクの影響も見落とす事は出来ないかも。
というのも、例えば、オペラなんかは、生声で歌うことを前提とした歌唱法なので、自らが楽器となるような独特の歌い方になってたり、日本でいえば、民謡の鼻から抜けるような歌い方なんかも、生歌で響かせる為に編み出された歌唱法とも言える訳で、そもそも伝統音楽というのは、マイクそのものが存在していない時代から続いてるもので、歌にしろ楽器にしろ、マイクを通して電気的に増幅させることを前提として作られてはいないんだよね。
なので、生音とマイクを通じた音とでは、違った聴こえ方にもなるのも至極当然の話。
しかも、マイクで録音する場合は、そのセッティングや録音環境でもかなり変わってくるので、必ずしも聴衆の耳と同じコンディションで録音出来ている訳ではない。
ちなみに、逆に言うと、マイクに適した音質や歌唱法ってのも、当然存在しうる話にもなる。
つまり、実際に奏でられている音と、電子機器を通過した音、更には人間の聴覚で聴こえている音は、必ずしも一致している訳じゃぁないんだよね。
と、なってくると、それこそ「本当の音」とはなんぞや?
ってな話にもなる訳で、こうなると音楽というよりは、もはや哲学の領域に入り込む話になってしまう?(笑)
いずれにしても、今となっては、実際の高橋竹山の生音を聴いて比較することは、出来なくなってしまった訳で、彼の本当の音を知る術は残念ながらこの世には無い。
そういった意味では、彼の三味線の音は、人々の記憶の中で生き続けるってことにもなるんだよなぁ。